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田中工務店ヒストリー

1955年、地域の大工・工務店として創業。
耐震性能・省エネ性能を高性能にしていくことが
『がいな家』を建てる工務店の使命です。

生い立ち 大工だった父

大きな背中、大きな手。大工の棟梁をしていた子供の頃の父の印象です。

家の近くにある作業場が父の仕事場でした。人付き合いは不器用で無口、おしゃべりなほうではなかったのですが、いつも職人さんの話を、ニコニコして聞いていました。作業場が私たち兄弟の遊び場でした。現場にもよく連れて行ってもらい、簡単な作業を手伝っていたものです。

今でもよく覚えている少年時代の想い出は、父が海水浴に連れて行ってくれた時のことです。

夏休みには軽トラックの荷台に幌を掛け、海に連れて行ってくれたものです。
平泳ぎで、いつまでも泳げる父の背中に乗って、弟と一緒に泳ぎました。

母も、父の仕事を手伝っていて、棟上の時には、柱に巻きつける紙を貼るため沢山の「糊」を大きな釜で炊いていました。上棟前には二人で忙しそうに準備していたのを覚えています。

棟が上がると、棟梁の子供ということで、お施主様と一緒に上に上げてもらって、餅を一緒に投げさせてもらいました。本当に楽しかったのを覚えています。今では餅投げはあまりされなくなりましたが、お施主様にはやったら本当によい思い出になると、強く奨めています。田中工務店の持ち投げ率は高いと思います(笑)できたら、廃れないように続けていきたいですね。

本当に真面目な父でした。毎日朝早く出かけて、遅くまで働いていました。父にはコツコツやることの大切さを知らず知らずのうちに教えてもらったと思います。

父は、無理に自分の仕事を継がせようとはしませんでした。また、母からも、「不安定な自営業ではなく、公務員か安定した企業に就職しなさい」と、常日頃から言われていました。

生い立ち 大工だった父

学生時代~サラリーマン時代 建築を志す

それもあってのことだと思いますが、中学を卒業する際、高校は、「普通科」を選びました。
しかし、高校生活も終わりを迎える頃には、自然と建築を学ぶために建築学科を目指していました。おそらく、大工棟梁だった父の背中を見て育ったことが大きく影響しているように感じます。いつの間にか、建築が好きになっていました。

父の口からは、「帰ってきて、仕事を継げ」ということは、一度も言われたことがありませんが、これが一生仕事にできることだと感じていました。

大学を卒業後、地元香川のゼネコンに就職、現場監督として、15年間勤務しました。家業を継ぐのに役立つと考え、一級建築士の資格取得にチャレンジしたのもこの頃です。

そして、1995年1月17日5時46分、阪神淡路大震災が発生しました。

6,434名の尊い命が失われました。その死因の約8割が「圧死」や「窒息死」でした。また、9割以上の方が地震発生後15分以内に命を落としています。
私は、住んでる人を守るはずの建物が凶器に変わってしまったことに、激しい衝撃を受けました。
地震にによる被害をなくすためには建物の耐震化が一番効果的と痛感しました。「強い家を建てる」ことだけに取り組もう。家づくりに係わる人間として、強く決意しました。

学生時代~サラリーマン時代 建築を志す

家業を継ぐ

そして、2年後、38才になった私は、父の仕事を継ぐことにしました。

66才になっていた父は、すでに引退を決意していました。そして、小さなリフォームを手掛ける程度の状態でした。

帰ってきた私は、「強い家」、「倒れない家」を建てたいという想いを実現するために、新築にもトライしていきました。

ありがたいことに勤めていた会社から仕事を頂いたり、父の代からのお施主様より紹介をしていただいて、徐々に形になっていきました。弟が帰ってきて、一緒に仕事をしてくれ始めたのもこの頃です。

もちろん、父は現役大工として現場にでてくれ、応援してくれました。ゆっくりしたかった父からは「帰ってきたら大変になった」と苦笑されたのを覚えています。

家業を継ぐ

危機のおとづれ

軌道に乗ってきたと思った矢先、予算が厳しい下請工事の新築現場で、施工ミスもあり大きな赤字を出してしまいました。

このままでは、経営が成り立たない。
そんな危機的状況になりました。

いいものを造ってさえいれば、やっていけるものだと思っていました。経営者として未熟だったと今では思います。

何をしたらいいのか分からず、あせるばかりでした。まさに、日々、恐怖でした。

危機のおとづれ

初めての見学会

これまでかと思った時に、義理の兄が「家を建てるので、俺の家の見積もりしてみるか?」と、声を掛けてくれ、家を建てさせてくれたのです。
助け舟を出してくれた、兄には感謝しかありません。

このチャンスを逃すことはできません。

私は、営業職の経験はありません。建築一筋に取り組んできましたが、ずっと現場監督でした。いい家の造り方はわかっても、どうやって家造りを考えられている方に、に田中工務店のことを知っていただくか分かりませんでした。

試行錯誤の結果、「現場見学会」を開催することにしました。新聞に折込広告を入れ、友人や知人にも声をかけて、見学に来ていただけるようにお願いしました。

そして、当日は慣れないスーツ姿になって、お客様をお待ちしました。
結果は、週末2日間で、13組の方にご来場頂けたのです。

なんと、その中から田中工務店でお家を建てて頂ける方に出会うことができたのです。

その後、少しづつですが着工棟数も増えていき、社員も増えていきました。ただ、安定した時期も、それほど長くは続きませんでした。

初めての見学会

ハウスメーカーや営業のうまいビルダーの台頭

5年ほど経ったとき、ハウスメーカーや営業や広告が上手いライバル工務店が台頭し、徐々に田中工務店の存在感は薄れていきました。

苦境の中、社員と一緒に自分たちに何が出来るか、自問自答しました。

「私たちは、本物の木の家を造ることができる」
「私たちは、本物の自然素材の家を造ることができる」
「私たちは、お客様の想いを聞いて、一緒に苦労することができる」
「私たちは、地震に強い家を造ることができる」

ハウスメーカーや営業のうまいビルダーの台頭

「がいな家」の誕生

原点回帰・・・そんな想いが頭に浮かびました。

私は、阪神淡路大震災の衝撃から、「強い家」「倒れない家」を造ろうと考えて、父の跡を継ぎました。

周りに惑わされず本当にやりたいこと、やれることに集中しよう。地元密着の工務店としてできる事をコツコツとやっていこうと決意したのです。

そういう決意から生まれたのが「がいな家」という田中工務店の想いを如実に現したコンセプト。

「がいな」とは、讃岐弁で、「強い」という意味です。「がいな家」とは、ずばり「強い家」のことです。

地元密着で、地震に強い家を建てていきたいと想っている私たちには「がいな家」の響きはとてもしっくりきます。

「がいな家」の誕生

「がいな」だけではなく省エネ・健康も

エネルギーをあまり使わなくて快適で健康に過ごせる家がいいと思っています。
「讃岐の家は夏をもって旨とすべし」という家づくりをしてきました。

機械に頼らず、太陽のエネルギーや風等を活用して快適な空間を創り出す「パッシブデザイン」の考え方です。

深い軒で夏の日差しをさえぎる等々、先人達の知恵を引き継いできました。

先人に学ぶだけではなく、最新の知識と技術力の向上に努めています。

四国は冬の寒さによる病気の自宅死亡率が全国的に高い地域です。地球温暖化の影響か各地で観測史上最高気温が記録され、熱中症の報道が毎日のようにされています。冬暖かく、夏涼しい家が健康な生活にはかかせません。

2016年には社員全員で省エネ建築診断士試験に合格しました。

現在、トリプルガラス樹脂サッシと付加断熱を標準にして、機械に頼らない本当のエコハウスを追求しています。

2018年には一般社団法人パッシブハウス・ジャパンの賛助会員になりました。

「がいな」だけではなく省エネ・健康も